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融通念佛宗|念仏は全員でとなえてこそ功徳がある

融通念佛宗は、平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で、日本最初の念仏道場といわれています。

融通念佛宗とは

宗祖良忍(りょうにん)

日本伝来/1117年

主な経典/『華厳経』『法華経』『阿弥陀経

おとなえ南無阿弥陀仏

本尊十一尊天得如来絵像

大本山大念佛寺大阪市平野区

特徴/ひとりの念仏は全員のためになり、全員の念仏はひとりのためになるという「一行一切行、一切行一行」を説く。華厳宗に似た教えですね。

手足の指を切る激しい修行

悟りを開けば阿弥陀如来がいる極楽浄土に往生して、仏の一員になれると考える仏教宗派を「浄土系」といいます。浄土系仏教は浄土宗、浄土真宗が有名ですが、融通念佛宗も忘れてはならない。

本尊の十一尊天得如来絵像というのは融通念佛宗特有のの呼び方で、阿弥陀如来を中心に10体の菩薩がその周囲を取り囲んでいる絵で表されています。この絵は宗祖の良忍阿弥陀如来から直接授かったといわれているものです。

そんな良忍は幼いころから才能にあふれる子供であった。仏法を学ぶため12歳で比叡山に登り、天台教学や密教、戒律などを次々に習得します。21歳の時にはすでに、僧たちに学問を指導する立場に任命されました。

しかし良忍は、学問の議論ばかりが行われ、仏道を求める心が薄れていた当時の比叡山に失望し、そこを飛び出して京都の大原地に隠棲する。23歳の時でした。

大原にこもった良忍は、悟りを開いて往生するため、よりいっそう厳しい修行を始めます。睡眠時間を削って毎日6万遍の念仏をとなえ、『法華経』の書写に励みます。さらには自分の手足の指を切って燃やし、仏に供養したと『後拾遺往生伝(ごしゅういおうじょうでん)』や『三外往生記(さんげおうじょうき)』〔いずれも良忍の死後の作〕は伝えています。

過酷な修行を続けて46歳になったとき、良忍の前に阿弥陀如来が姿を現しました。そして阿弥陀如来から融通念佛の要となる「一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切行一行」と偈文(げもん)の感得と、十一尊天得如来の絵像を授かりました。これをもとに融通念佛宗を創始し、各地で布教活動を始めるようになりました。そしてその10年後、良忍のうわさを聞いた鳥羽上皇の勅願によって、融通念佛宗の根本道場となる大念佛寺(現大阪市平野区)を開創したのです。

全員でとなえる合唱念仏

良忍阿弥陀如来から授かった言葉、「一人一切人、一切人一人」とは「ひとつの中に全体が含まれ、全体のなかにひとつが含まれる」という『華厳経』の教えと同じものです。そして続く「一行一切行、一切行一行」は「ひとつの修行(念仏)は全員の修行、全員の修行はひとりの修行」ということになります。

融通念佛宗はこれにもとづき、ひとりの念仏が、全員でとなえる念仏と融合して通じ合い、初めて全員が仏の功徳を得られるとしています。たとえるなら、ひとつ一つの小さな照明が融合することによって大きな灯となり、全体を隅々まで明るく照らし出すという考え方です。

自分の念仏+他人の念仏+阿弥陀如来の願力。この三者を融通させることを目的とした融通念仏は、人々が大勢でとなえることによって興奮作用をもたらし、多くの人々に受け入れられていったのです。

修行法は一日百遍の念仏をとなえる日課念仏と、早旦の念仏。早旦の念仏は起床して顔を洗った後、西を向いて「弥陀所伝、融通念仏、億百万遍、決定(げつじょう)往生」と唱えて、10編(回)の念仏をします。阿弥陀如来から良忍上人へ直伝された融通念仏は、ひとりの念仏がすべての人の念仏なり、億百万遍の数となって功徳も広大となり、これにより救いが得られる。もちろんひとりでとなえてもいいが、その際は阿弥陀如来や、多くの人々と念仏の絆で結ばれていることを自覚しながらとなえることが推奨されています。

 

融通念佛宗の本尊の絵は阿弥陀如来から直接授かったという。阿弥陀如来を祀ってみませんか?

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