浄土宗|南無阿弥陀仏ととなえるだけで誰でも救われる
浄土宗は皆さんもよく聞く宗派だと思います。悟りを開けば阿弥陀如来がいる極楽浄土に往生して、仏の一員になれると考える仏教宗派の代表格ですね。
浄土宗とは
宗祖/法然(ほうねん)
日本伝来/1175年
おとなえ/南無阿弥陀仏
本尊/阿弥陀如来
特徴/助力のある者、知識のある者しか行えない修行を必要としない。ただ「南無阿弥陀仏」ととなえるだけで、身分や能力にかかわらずだれでも極楽浄土に行けると説く。
専修(せんじゅ)念仏にたどりつく
阿弥陀如来を拝み、極楽浄土に往生することを願う浄土系仏教。その代表格とされるのが、浄土宗と浄土真宗です。このふたつの宗派は現在でも圧倒的な信徒数を誇っており、これらがなければ今の日本の寺院数は半分以下になっていたといっても過言ではない。
宗祖の法然は13歳で比叡山に登り、天台教学や戒律を学んだ。この頃から「どうすれば多くの衆生を救えるのか」という考え方をもっていたが、その答えはなかなか得られなかった。悩みながら修行を続ける法然が43歳になった時、中国で浄土教を大成した善導大師の『観経疏』(かんぎょうしょ)という『観無量寿経』の注釈書に出会った。そこには、このような一文が書かれていた。「一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時間の長い短いを問わず、つねに忘れないこと。これを正定業(しょうじょうごう)という。これは阿弥陀仏の願力にかなっている」。行住坐臥とは、歩くこと、とどまること、座ること、寝ること。そして正定業とは、極楽浄土に生まれる正しい修行法という意味です。つまり四六時中、時間の長い短いにかかわらず阿弥陀仏の名前を念じていれば、極楽浄土に往生できると書かれていたのです。これを「専修念仏」といいます。
専修念仏こそ法然の求めていた答えだった。比叡山を下りた法然は、京都東山の吉水(大谷)を拠点として、専修念仏の不況を始める。やがて法然のうわさを耳にした老若男女たちが法然のもとに集まってきた。これが浄土宗の始まりでとなります。
ほかの修行を必要としない
浄土宗の本尊は阿弥陀如来だが、その右側に慈悲を示す観音菩薩、左側に知恵を示す勢至菩薩が祀られていることが多い。そして拠り所となる経典は『阿弥陀経』『無量寿経』『観無量寿経』という「浄土三部経」です。経典は宗派の教科書のようなもので、それまでの仏教諸派では悟りを開くための必読の書とされていました。しかし、法然の教えでは、それすらも無理に読まなくてもいいとしています。ただひたすら「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)」ととなえるだけで、誰でも間違いなく悟りを開いて極楽浄土に往生できると説いているのです。
通常仏教界において、悟りの世界に至るためには6種類の修行が必要とされています。それぞれ「お布施をすること」「戒律を守ること」「耐え忍ぶこと」「努力すること」「瞑想すること」「真理を求めること」です。これらを六波羅蜜といいます。当時すべての人々が六波羅蜜の修行を行えたかというと、かならずしもそうではない。貧困に苦しむ人はお布施ができないし、うそや盗みを禁じる戒律もやむを得ず破らなければならない状況もあっただろう。真理を追究するために難解な経典を読んだところで、それを理解できる知識がなければどうにもならない。大乗仏教とは衆生を救うための仏教だが、これでは誰も救われない。
その点、念仏をとなえるだけでいいとする専修念仏は、まさしく大乗仏教の理にかなっている。それまでの念仏は煩悩を断つためのものだったが、法然は「末法の世においてはすべての行を捨て、念仏に帰依すべき」と説いた。この教えはそれまで仏教に興味を示さなかった人々も虜にしたのです。
浄土宗の本尊である阿弥陀如来を祀ってみませんか?