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天台宗|日本仏教界の母体となる新宗派の誕生

日本仏教界の母体となった天台宗について紹介します。

天台宗とは

宗祖最澄(さいちょう)

日本伝来/806年

主な経典/『法華経』『阿弥陀経』『大日経

おとなえ/南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏

本尊/釈迦如来阿弥陀如来など

大本山延暦寺

特徴/中国仏教の完成といわれた中国天台宗に、密教、禅、戒律を加えた日本独自の宗派。『法華経』のもと、修行者は誰でも大きなひとつの乗り物に乗ってブッダになれると説く。(大乗仏教

日本仏教の母体(総合仏教)

時代が奈良から平安へ移った日本の変革期。日本の仏教界にも大きな変化がありました。のちに伝教大師と呼ばれる最澄が、比叡山天台宗を興したのです。

天台宗最澄の完全オリジナルというわけではなく、もともと中国にあった天台宗を発展させたものです。中国の天台宗を築きあげたのは、隋の智顗(ちぎ)という僧でした。 お釈迦様は聞き手によって説法の内容を説き分けていたため、それをもとに編纂された膨大な数の経典も少しづつ内容が違うものになっていました。そこで智顗は、中国に伝わったすべての経典を研究して、各教典の目的や性質を見つけ出しました。それが『法華経』であり、ほかの経典はあくまで『法華経』の内容を補完するためのものだと結論づけたのです。

こうして智顗が『法華経』を中心に整理し直した仏教は、「天台教判」と呼ばれ、中国仏教の完成とまでいわれています。この思想をまとめた典籍は鑑真たちによって奈良時代の日本にも伝えられましたが、当初はあまり注目されず、寺院の蔵で眠ったような状態になっていました。

この書物に目をつけたのが、まだ若い僧だった最澄でした。仏教が学問のように扱われていた日本仏教界に疑問を抱いていた最澄は、智顗の思想にふれて、中国天台宗を学びたいと思い立つ。そして805年に唐へ渡り、それを実現しました。

最澄が中国で学んだのは天台宗だけではありません。さまざまな僧とふれあって密教や禅を学び、さらには戒律も授かった。そして1年後の806年に帰国して、日本の天台宗を開いた。 最澄の開いた天台宗は、もとから中国にあった天台宗と大きく違っていました。中国天台宗密教、禅、戒律という4つの思想を統合して発展させた最澄の独自だったのです。

仏教のさまざまな要素をミックスさせたことで、最澄天台宗は仏教の総合体ともいえる立場になりました。このことによって天台宗は、それまで大陸輸入だった南都六宗の仏教諸派を学んでいた僧たちの関心を集め、後年に誕生する「浄土宗」など日本仏教の母体となりました。

密教顕教(けんぎょう) 密教とは、教団の中で秘密の教義と儀礼を、師資伝承によって伝えていく仏教のことをいいます。 密教と逆の立場にあるのが顕教です。顕教は広く大衆に向かって世界観を語り、明瞭な言葉で仏教の教えを説くスタイルです。

朝に題目、夕に念仏

天台宗では『法華経』がお釈迦様が説く最高の真理としています。そのため朝には「南無妙法蓮華経」という『法華経』の題目をとなえなますが、夕方には『阿弥陀経』の「南無阿弥陀仏」という念仏をとなえるところが多い。ほかにも『大日経』を読経するすることもある。これは最澄天台宗が仏教のさまざまな思想をミックスした結果にほかなりません。

また、奈良時代の仏教には、師の教えを開いて真理を理解する「声聞乗」、現実を観察して真理を理解する「縁覚乗」、衆生に教えを広めて真理を理解する「菩薩乗」のみとされていたが、最澄はそれに異をとなえた。すべての修行者は誰もがひとつの大きな乗り物に乗ってブッタになれるという「一乗説」を推したのです。こうしたさまざまな仏教改革が、のちに僧たちに大きな影響を与えたのです。

 

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